日本のオーパーツ聖徳太子の地球儀

日本発のオーパーツ聖徳太子の地球儀

数ある有名なオーパーツの中に、日本製の物が存在します。
聖徳太子の地球儀」と呼ばれるこのオブジェが発見された年と言うのははっきりしていません。

元々兵庫県太子町斑鳩寺に伝わる物とされて来ましたが、聖徳太子が生きていた時代に作られ今日まで伝わって来た物なんでしょうか。

聖徳太子の地球儀がオーパーツたる所以

このオーパーツの大きさはソフトボール程で、丸い球体のオブジェの中に陸地を浮き上がらせて作られています。
逆に海面はへこませて作ってあり、最初「地中石」と呼ばれていたようです。

斑鳩寺の宝として今日でも有名なこの地球儀、その表面には当時知り得なかったと思われる大陸もしっかりと表現されているんですね。
地図でオーパーツと言うとピリ・レイスの地図が有名ですが、同じように聖徳太子の地球儀も、当時未知とされている大陸がそこに記されています。

仮にこの地球儀が本当に聖徳太子が制作した物なら今から1400年も前に世界の様子を把握していた事になります。
もちろん当時の日本では「地球が丸い」と言う概念は存在しなかった様な時代です。

今でいうヨーロッパやアジアだけでなく、アフリカ大陸や南極大陸、アメリカ大陸も彫り込まれていますが、特に後半の三つ、そのどれもが後世になって発見された物ですね。
特に南極大陸は1800年代に入って初めて本格的な調査が始まったわけですから、大昔の日本人がその概要を知っているとなるとこれは由々しき問題ですね。

聖徳太子の地球儀は江戸時代に作られた?

このオーパーツの真相に関しては、有力な説として江戸時代に作られた物ではないかと言う物があります。
いかんせん聖徳太子が作ったと言うエピソードが付いている事によって、まるで飛鳥時代に作られたイメージが付いて回りますが、これも後世の人が付け足した逸話だと思われます。

まずこの地中石の素材ですが、石と言うよりは海藻の糊を混ぜた漆喰で出来ています。
この技法自体が江戸時代に普及した物で、その際に作られた物の可能性が高いんですね。

そして、もう一つのポイントは南極大陸に関する物です。
実は1800年代初頭頃の欧米の航海地図にも南極大陸は描かれていますが、それはあくまでそこに大陸があるだろうと言う想定の元で書かれただけの物で、大陸の形自体は概ね想像で書かれている事が多かったんですね。

そして当時はまだ南極と言う名称も用いられておらず、もっぱら航海術の進んでいたヨーロッパではメガラニカ大陸と呼ばれていました。
このメガラニカと言う単語は、聖徳太子の地球儀の中にも書いてあります。

漢字で墨瓦蝋泥加(メガラニカ)と記述してありますが、これは完成後に付け足した物ではない事も科学的に分かっているようですね。
逆説で本当に聖徳太子が未来を見通す力がありこの地球儀にそれを盛り込んだとしたらもっと後世の正式名称「南極大陸」と言う名で文字が刻まれているはずです。

江戸時代に欧米から伝来したと思われる旬の名称メガラニカが用いられている事によって、やはりこの時代に作成された可能性が濃厚と思って良さそうですね。

ムー大陸も描かれている

どうやら聖徳太子の地球儀にはムー大陸も書かれていると言われていますが、これも長年研究の対象となると共に神秘的な逸話として様々な書籍に載っていました。
これに関しての真相は、ずばり今でいうフィリピンあたりの島々が大きく南に湾曲して移動させられた結果の様です。

作る過程でそうなったのか、はたまた日本に伝来したばかりの世界地図はそうなっていたのかは不明ですが、後の世の人が見ると大昔そこにムー大陸が存在していたとされる場所にある事で、自然と紐づけられてしまったんですね。

この様に真相を一つ一つ見ていくと、調査・研究である程度解明されてしまっているようです。

まとめると、聖徳太子の地球儀は江戸時代に作られた物で、後に「聖徳太子が作った」と言う尾ひれがつき由来のある斑鳩寺に奉納されていると言う事になりそうですね。

[当記事の著作権はhttps://chahoo.jp/に帰属します]2016/07/11
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聖徳太子の地球儀
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