1945年12月24日、クリスマスイブの夜。アメリカ・ウェストヴァージニア州フェイエットビルの郊外で、一軒の二階建ての家が炎に包まれました。逃げ出したのは父と母、そして9人いた子供たちのうち4人。残された5人の子供——14歳のマウリス、12歳のマーサ、9歳のルイス、8歳のジェニー・アイリーン、5歳のベティ・ドリー——は、その夜から80年が経った今もなお、一片の遺体も、一本の骨も見つかっていません。
火災の原因は「配線の不具合」と片付けられました。けれども家族は、その夜に起きた一連の出来事を「ただの火事」とは到底考えられませんでした。切られていた電話線。前日まで動いていたのに始動しなかった2台のトラック。家から75フィート離れた斜面に投げ捨てられたハシゴ。そして、火災の20年以上のち、母ジェニーのもとに届いた一枚の写真——。
5人の子供たちは、本当に火事で死んだのでしょうか。それとも、誰かに連れ去られたのでしょうか。本記事では、アメリカ犯罪史上もっとも有名な未解決事件の一つ、「ソダー家の子供たち失踪事件」を時系列で辿り直します。

1945年12月24日、クリスマスイブの深夜

ジョージ・ソダー(George Sodder)は、1895年にイタリア・サルデーニャで生まれ、ジョルジョ・ソッドゥ(Giorgio Soddu)の名で米国に渡った移民でした。妻ジェニー(Jennie Cipriani Sodder)と1922年に結婚し、ウェストヴァージニア州フェイエットビルの郊外、町から北へ約2マイルの土地に大きな二階建ての家を構え、石炭運送業で生計を立てていました。夫妻のあいだには10人の子供がおり、長男ジョセフは第二次世界大戦に従軍中で当夜は不在でしたが、それ以外の9人と両親が、クリスマスイブの夜を一緒に過ごしていました。
19歳のマリオン(Marion)はその日、フェイエットビルのダイムストアでの仕事を終えて帰宅すると、妹のマーサ、ジェニー、ベティに、買ってきたばかりの新しいおもちゃをサプライズで手渡しました。下の子供たちは大喜びで、いつもより夜更かしを許してほしいとせがみます。母ジェニーは、3歳の末娘シルヴィアを抱えて二階の主寝室に上がりましたが、ほかの子供たちは一階で遊び続け、屋根裏の寝室で眠るのは少しあとになりました。
午前0時30分頃、ジェニーは電話の音で目を覚まします。受話器を取ると、聞き覚えのない女性の声で、聞き覚えのない人物の名前を尋ねてきました。背景には騒がしい笑い声とグラスがぶつかる音が聞こえたといいます。間違い電話だと答えて受話器を置いたあと、ジェニーは一階に下りて、子供たちが電気をつけたまま、カーテンも引かずに眠ってしまっていることに気づきました。電気を消し、カーテンを閉めてから、再びベッドに戻ったといいます。
それから30分ほど経った午前1時頃、彼女は屋根の上で「鋭く大きな音」と、その後に続く「何かが転がる音」を聞きます。何の音かはわかりません。再び目を閉じようとしたそのとき、寝室に煙が流れ込み始めました。
燃え盛る家、消えた5人の子供たち

ジェニーは飛び起き、夫ジョージと年長の子供たちを起こしました。火元は一階のジョージの仕事部屋付近——電話と配電盤のあるあたりでした。家族は手分けして子供たちを起こそうと走りましたが、屋根裏に通じる階段はすでに炎に飲まれ、上階の子供たちのところへは行けません。
逃げ出せたのは、父ジョージ、母ジェニー、そして長男ジョン(22)、長女マリオン(19)、次男ジョージ・ジュニア(16)、末娘シルヴィア(3)の6人でした。
ジョージは家の外に飛び出すと、もう一度家に戻ろうと窓を割り、腕の皮膚を大きく切り裂きながら屋内へ入ろうとしました。しかし二階へ上る方法がありません。普段、家の壁に立てかけてあった彼のハシゴは、消えていました。彼は石炭運搬用のトラック2台で、トラックの屋根に乗って高い窓に手を届かせようとしましたが、前日まで何の問題もなく動いていた2台ともが、どうしてもエンジンがかからなかったのです。
雨水を溜めていた樽から水を汲もうとすれば、それは凍りついて使えません。家族が消防に連絡を試みても電話は通じず、結局、町まで知らせを走らせる形になりました。フェイエットビル消防隊が現場に到着したのは、夜が明けてからのことだったと記録されています。
家は焼け落ちました。その焼け跡から、5人の子供たち——14歳のマウリス、12歳のマーサ・リー、9歳のルイス、8歳のジェニー・アイリーン、5歳のベティ・ドリー——の骨も歯も、ほとんど何ひとつ見つからなかったのです。
偶然では片付かない不審な点の数々

火災現場に立ち会った人々や、後に事件を取材した記者たちが指摘した不審な点は、ひとつやふたつではありません。
第一に、間違い電話。深夜0時30分の不審な女性の声は、のちに捜査関係者が発信者を特定するに至りましたが、彼女は「自分が掛けたのは単なる間違い電話だった」と説明したと記録されています。背景の笑い声と、その後の出火との関連は、確かめようがありませんでした。
第二に、電話線。火災後、家族が電話会社の修理工に電話線を確認させたところ、線は焼け落ちたのではなく、明らかに「切断」されていたことが判明しました。切られていた箇所は地上から14フィート(約4.3メートル)の高さで、よじ登らなければ届かない位置です。
第三に、ハシゴ。普段ジョージが家の外壁に立てかけていたハシゴは、火災当夜のあとで、家から約75フィート(約23メートル)離れた斜面で発見されました。誰かが意図的に運んで投げ捨てたとしか考えられない位置でした。
第四に、トラック。前日まで問題なく稼働していた2台の石炭運搬車が、揃ってこの夜だけエンジンがかからなかったこと。
第五に、屋根の音。母ジェニーが火の手の上がる直前に聞いた「鋭い大きな音」と「転がる音」。後年、家族は焼け跡近くで、緑色のゴム球状の物体を発見しました。ジョージはのちに、これを「焼夷弾の一種だったのではないか」と語ったとされていますが、確証はありません。
第六に、目撃証言。火災の最中、家の前を通った車から子供たちが顔を覗かせていたという女性の目撃証言。翌朝、フェイエットビルとチャールストンの間にある観光地で、Floridaナンバーの車に乗った子供たちに朝食を出したという従業員の証言。1週間後、チャールストンのホテルで、4人の子供を「2人の女と2人のイタリア系の男」と一緒に見たというホテル従業員の証言——。これらはすべて二次的な伝聞情報で、警察が裏付けを取るには至りませんでしたが、家族には強い印象を残しました。
「配線の不具合」——納得できなかった父

事件の正式な調査は、フェイエットビル消防署長モリス(Morris)と地元の検視陪審によって短期間で結着がつけられました。出火原因は「電気配線の不具合」、5人の子供は「火災により焼死」。死亡証明書は、火災からわずか5日後の1945年12月30日付で発行されました。
しかしジョージは、この結論を到底受け入れることができませんでした。家の電気系統は事件の数ヶ月前に全面的に改修・点検されたばかりで、電力会社からも「問題なし」のお墨付きを得ていたからです。
ジョージにはもう一つ気がかりなことがありました。彼はイタリア系移民で、故国のファシスト政権を率いるムッソリーニに対し、地元のイタリア系コミュニティのなかでも公然と批判の声を上げていました。火災の数ヶ月前、ジョージのもとに保険を売り込みにきた男が、契約を断られた立ち去り際に「ムッソリーニへのお前の態度が変わらなければ、家は焼け落ち、子供たちも報復で破壊されるぞ」という意味のことを言い残していたのです。後にジョージが雇った私立探偵C.C.ティンスリー(C.C. Tinsley)の調査によれば、この同じ男が、火災を「事故」と認定した検視陪審員に名を連ねていました。さらにこの男は、ジョージの同意なしに家の保険金額を引き上げてもいたとされています。
1947年、ジョージは連邦捜査局(FBI)に調査を依頼する手紙を送ります。返答したのはFBI長官J・エドガー・フーバー本人でした。フーバーは「これは地域の管轄に属する案件であり、地元当局からの正式な要請がない限りFBIは関与できない」と回答し、地元当局が要請に応じることもありませんでした。
それでもジョージとジェニーは諦めませんでした。1949年8月、彼らはワシントンD.C.の病理学者オスカー・ハンター(Oscar Hunter)の監督のもと、焼け跡を専門家チームで掘り返します。発見されたのはわずかな骨片——腰椎の一部だけでした。しかし、その骨を分析したスミソニアン研究所(Smithsonian Institution)からの報告は、家族にとってさらに大きな疑問を残します。骨は「火に晒された痕跡を示しておらず」、年齢推定は16歳から22歳。当時行方不明だった子供たちのうち最年長のマウリスでも14歳でしたから、年齢が合いません。スミソニアン側は、焼け跡を埋めるために運び込まれた土のなかに、たまたま混じっていた可能性が高いと結論づけました。
5人の遺体らしきものは、結局ひとつも見つからなかったのです。
1950年、ウェストヴァージニア州議会は事件について公聴会を2回開きました。しかし最終的に、当時の州知事オーキー・L・パターソン(Okey L. Patteson)と州警察長官W・E・バーチェット(W.E. Burchett)は、これ以上の捜査は「無望」だとして、案件を州レベルで打ち切ります。
看板に懸けた20年、ケンタッキーから届いた1枚の写真

公的な捜査は終わってしまっても、ジョージとジェニーは独自の捜索を続けました。1952年、ソダー家は焼け跡に近い米国国道60号線(U.S. Route 60)沿いに、巨大な看板を建てます。
看板には行方不明の5人の子供たちの写真と、事件の概要、そして情報提供への懸賞金が掲げられました。当初は5,000ドル、のちには10,000ドルにまで引き上げられます。看板はジェニーが亡くなる1989年まで、約37年にわたってその場所に立ち続けました。
ジョージは全米を飛び回り、寄せられた情報を一つずつ確かめていきました。ニューヨーク市のある学校で、行方不明の娘ベティに似た少女の写真を見つけたと言って訪ね歩いたこともあります。
そんなジョージのもとに——亡くなる2年前の1967年、ある日、母ジェニーが受け取った郵便物のなかに、消印がケンタッキー州セントラルシティの一通の封筒が紛れていました。差出人の名前はありません。封を開けると、20代半ばに見える男性の写真が一枚、入っていました。
その男性は、写真でしか覚えていないはずの息子ルイス——もし生きていれば30代になっているはずの——に、不思議なほどよく似ていたのです。濃い縮れ毛、黒い瞳、鼻の形、眉の角度。家族は皆、その類似に驚きました。
写真の裏には、奇妙な走り書きがありました。
Louis Sodder.
I love brother Frankie.
Ilil boys.
A90132 or 35
直訳すれば、「ルイス・ソダー。フランキー兄さんが大好き。Ilil ボーイズ。A90132 または 35」となります。「Frankie(フランキー)」というのはソダー家にいない名前です。「Ilil boys」も、何を指しているのかわかりませんでした。「A90132 or 35」が何かの番号だとすれば、軍の認識票か、囚人番号か、何かの登録番号か——。
ソダー家はすぐに私立探偵を雇い、消印のあったケンタッキー州セントラルシティへ向かわせました。しかし、その探偵はそのまま戻ってきませんでした。家族は彼の行方すら掴めなかったといいます。
ソダー家は看板に、この「ルイスらしき男性」の写真を新たに加えました。それから2年後の1969年、ジョージは事件の謎を抱えたまま世を去ります。事件から24年が経っていました。
末娘シルヴィアが守り続けた記憶——2021年に閉じた捜索
母ジェニーは、火災の夜以降、外出時にはほとんど黒い喪服しか身につけませんでした。家の周りには塀を巡らせ、年を追うごとに家に部屋を建て増しし、やがて自分の身を、世界からいくつもの壁で隔てるようになっていったといいます。彼女が亡くなったのは1989年。看板はその直後、長年の風雨ですっかり色あせた状態のまま、撤去されました。
捜索を引き継いだのは、火災の夜に3歳だった末娘シルヴィア(Sylvia Sodder Paxton)でした。シルヴィアにとって、あの夜の混乱と煙のにおい、そして両親の絶望した表情は、人生でもっとも古い記憶として残り続けました。
成長したシルヴィアは結婚してパクストン姓となり、家庭を築きながらも、5人の兄弟たちが「火事で死んだ」とは一度も信じませんでした。彼女は晩年まで、メディア取材に応じたりオンラインフォーラムを通じて情報を集めたりしながら、家族の訴えを世に伝え続けました。
シルヴィアは2021年4月21日、長い闘病の末に79歳で亡くなりました。当夜の家にいた子供たちのうち、もっとも年下で生き延びた一人でした。
5人の子供たちは、本当に1945年のクリスマスの火災で命を落としたのでしょうか。それとも、誰かに連れ去られたのでしょうか。事件発生から80年、両親も末娘も世を去り、一次証言を語れる人はもういません。
骨は出ませんでした。電話線は切られていました。ハシゴは投げ捨てられていました。ケンタッキーからの一枚の写真には、誰に向けたかもわからないメッセージが書かれていました。すべての断片が、ひとつの像を結ぶことなく、いまも宙づりのまま残されています。
参考文献
- 英語版Wikipedia「Sodder children disappearance」(https://en.wikipedia.org/wiki/Sodder_children_disappearance)
- Smithsonian Magazine「What Happened to the Sodder Children, the Siblings Who Went Up in Smoke in a West Virginia House Fire?」(調査報道)
- Legends of America「Missing Sodder Children in West Virginia」
- NPR (2005)「Mystery of Missing Children Haunts W.Va. Town」
- Wickedhistory(Abbott Kahler)「A Tragic and Enduring Christmas Mystery」
- Find a Grave データベース(Sylvia Ann Sodder Paxton 没年確認)
※ 本記事は上記の記録および報道を一次情報として参照し、断定できない伝聞・目撃証言については「とされる」「と語った」等の表現で区別しています。