最終更新日 8時間 ago by OKAYAMA
ドイツ・バイエルン州、ミュンヘンから北へ約70キロメートル。Kaifeck(カイフェック)と呼ばれる小さな集落から、さらに1マイルほど北上した、密林に囲まれた小さな農場。地名を「ヒンターカイフェック(Hinterkaifeck)」というその農場で、1922年3月31日の夜、農夫アンドレアス・グルーバー一家4人と、雇われたばかりのメイドの計6人が、家の凶器であるマトック(鍬の一種)で次々に殺害されました。
最年少の被害者はわずか2歳、最年長は72歳。事件発生から発見までの数日間、犯人は農場に居続け、家畜の世話をし、台所のパンを食べ尽くしながら、何事もなかったかのように暮らしていた形跡があります。
事件はドイツ犯罪史上もっとも有名な未解決事件の一つとして語り継がれ、1955年に正式に捜査が打ち切られました。2007年には警察学校の若者たちがこの古い事件を現代の捜査技術で洗い直し、ある一人の人物を「主要容疑者」として全員一致で名指ししています。けれども、その名前は今も公開されていません。
ヒンターカイフェック農場で、あの数日間に何が起きたのでしょうか。

1922年3月、ある農場の不穏な前兆——雪の足跡と屋根裏の音

事件の半年ほど前、グルーバー家でメイドとして働いていたクレツェンツ・リーガー(Kreszenz Rieger)が、突然職を辞めて農場を去ります。退職の理由は、屋根裏部屋から「奇妙な音が聞こえる」というものでした。誰かが屋根裏で動いている、足音のようなものが響く——そんな話を残して、彼女は荷物をまとめて出ていったとされています。
それから半年後の1922年3月、当主アンドレアス・グルーバー(63)は、農場の敷地内で見覚えのない新聞を拾いました。発行元はミュンヘン。けれども、家の誰一人としてその新聞を買った覚えがありません。
同じころ、家の鍵が一つ、いつの間にか家から消えました。失くしたわけでも、置き場所を間違えたわけでもなく、ただ忽然と消えたのです。
そしてアンドレアスは、雪の上に奇妙な足跡があるのを見つけます。森の方から農場へ続き、機械室の扉のところで止まっていました。その扉の鍵は、無理やり壊された形跡がありました。
その夜、家族は屋根裏で誰かが歩く足音を聞きます。アンドレアスは屋根裏を確かめに上りましたが、誰の姿もありませんでした。
不審な兆候は重なっていきました。アンドレアスはこれらの出来事を複数の知人に話していたとされていますが、彼らからの援助の申し出はすべて断り、警察に届けることもありませんでした。
3月31日金曜日の午後、新しいメイド、マリア・バウムガルトナー(Maria Baumgartner、44)が、妹に付き添われて農場に到着します。前任のリーガーが去って以来、しばらく空席だったメイドの仕事を、ようやく埋められた——マリアにとっては、その日が農場での初出勤の日でした。
そしてその夜、6人全員が殺されます。
4月4日午後、納屋に積まれた4つの遺体

事件後、農場には4日間にわたって誰の応答もなくなりました。
4月1日、コーヒー販売を営むシロフスキー兄弟(Hans Schirovsky、Eduard Schirovsky)が、注文を取りに農場を訪れます。何度ノックをしても扉は開かれず、家の周囲を歩いても人影はありません。兄弟は農場の機械室の門が開け放たれていることに気づき、不思議に思いながらも、その場を立ち去りました。
4月4日、いつものように出かけてくる家族の姿が見えないことに気づいた近隣の人々のあいだで、不審が広がります。隣人ロレンツ・シュリッテンバウアー(Lorenz Schlittenbauer)は、まず16歳の息子ヨハンと、9歳の義理の息子ヨーゼフ・ディックを農場に様子見に行かせました。二人は何の応答も得られないまま戻ってきます。
午後3時30分頃、シュリッテンバウアー本人が、近隣のミヒャエル・ペル(Michael Pöll)、ヤコブ・ジーグル(Jakob Sigl)と連れ立って、農場を訪れます。三人が納屋に足を踏み入れたとき、藁と木製の扉に覆われ、積み重ねられた4つの遺体を発見しました。
納屋に積まれていたのは、当主アンドレアス・グルーバー(63)、その妻ツェツィリア・グルーバー(Cäzilia Gruber、72)、未亡人だった娘ヴィクトリア・ガブリエル(Viktoria Gabriel、35)、そしてヴィクトリアの娘で7歳のツェツィリア・ガブリエル(Cäzilia Gabriel)。
家屋の中には、当日初出勤だったメイドのマリア・バウムガルトナーがメイドの寝室で、ヴィクトリアの2歳の息子ヨーゼフ・グルーバー(Josef Gruber)が子供部屋で、それぞれ殺されていました。
検視の結果、6人全員が頭部への打撃で命を落としていました。凶器は、グルーバー家の所有物だったマトック——日本でいえば鍬と斧を組み合わせたような農具です。
なかでも痛ましかったのは、7歳のツェツィリアの状態でした。彼女は致命傷を負ったあとも数時間にわたって生きていたとみられ、藁の中で自分の髪を房ごと引きちぎった痕跡が残されていたといいます。
犯人が居続けた数日間——食事、家畜、煙

ミュンヘンから派遣された捜査チームの責任者、ゲオルク・ライングルーバー警部(Inspector Georg Reingruber)が現場に立ったとき、捜査員たちが直面したのは、犯行そのものよりも不可解な「事件後」の光景でした。
家畜には誰かが餌を与えており、健やかに過ごしていました。台所のパンは犯人によって食べ尽くされ、食料庫の肉が切り取られた形跡もあります。事件発生後のある日、農場の近くを偶然通りかかった職人ミヒャエル・プレックル(Michael Plöckl)は、農場のオーブンが焚かれていることを示す煙が屋根から立ち上っているのを目にしたといいます。
つまり、6人を殺害した犯人は、犯行のあと農場から立ち去らず、数日にわたって——少なくとも4月1日のシロフスキー兄弟訪問時から、4月4日の遺体発見の少し前まで——家畜を世話し、台所で食事をしながら、平然と農場に居座っていたとみられるのです。
捜査現場は、シュリッテンバウアーをはじめとする発見者たち、そしてのちに集まってきた野次馬たちが、遺体を動かしたり、農場内を歩き回ったり、果ては台所で食事まで作ったりしたことで、すでに大きく汚染されていました。被害者の頭蓋骨はミュンヘンに送られ、さらなる鑑識検査が試みられたと記録されています。けれども、当時のドイツの地方警察には指紋採取の習慣すらまだ定着しておらず、後年、捜査の不徹底さが繰り返し批判されることになります。
事件のおよそ1年後、農場の建物は事件の記憶を消し去るために解体されました。そしてその解体作業中、屋根裏から——血まみれのマトックが、納屋の藁の中から——ペンナイフが、それぞれ発見されたのです。凶器を屋根裏に隠したまま、犯人は数日間、その下で食事をしていたことになります。
容疑者の影——隣人ロレンツ・シュリッテンバウアーをめぐる説

捜査線上に最初に浮かんだのは、遺体の第一発見者の一人、隣人ロレンツ・シュリッテンバウアーでした。
彼は1918年に最初の妻を亡くしたあと、グルーバー家の娘ヴィクトリアと交際を始めていました。やがて彼女との間に生まれたとされる息子ヨーゼフ(事件当時2歳)を、自分の子として養子に迎え入れます。
ヴィクトリアの家庭には、より深い影が差していました。父アンドレアスは1915年、ノイブルク地方裁判所で、娘ヴィクトリアとの近親相姦の罪で有罪判決を受け、1年間の禁固刑に処されていたのです。罪に問われたのは、1907年から1910年にかけての期間とされています。
1919年——息子ヨーゼフが生まれて間もない頃——ヴィクトリアは、恋人シュリッテンバウアーにある告白をしたとされています。「ヨーゼフの父親は、あなたではない。父アンドレアスから受けた、いまも続く性的虐待の結果としてできた子供だ」——。この告白は再び当局に届けられました。
遺体発見時の彼の行動は不可解なものでした。施錠されていたはずの玄関ドアを、彼はためらうことなく開けて家に入ったといいます。納屋では、本来動かすべきでない遺体に手をかけ、4人の遺体の上に重ねられていた藁と扉を取り除きました。後の捜査陣に「犯人がまだ家の中にいるかもしれない状況で、なぜ一人で家に入ったのか」と問われたシュリッテンバウアーは、「ヨーゼフを探していた」と答えたと記録されています。結果として、現場保全は決定的に損なわれました。
事件から3年後の1925年、解体された農場の跡地を訪れたシュリッテンバウアーは、一緒にいた人物にこう語ったとされています。「犯人は家族の遺体を埋めようとしていたんですよ。でも地面が凍っていて、それができなかったんです」——遺体の埋葬未遂の痕跡は、警察が公にしていない情報でした。
それでもシュリッテンバウアーは、立件されませんでした。決定的な物証はなく、彼が起訴されることはなかったのです。
容疑者として名前が挙がった人物は、シュリッテンバウアーだけではありません。前メイドのクレツェンツ・リーガーは退職後、近隣のビクラー兄弟(Bichler brothers)が犯人ではないかと示唆したと伝えられています。Wikipediaの英語版記事によれば、長い捜査の歴史のなかで容疑者として名前が挙がった人物は、シュリッテンバウアーやビクラー兄弟も含めて10人を超えています。さらに後年には、当主アンドレアス自身がヴィクトリアの告白とヨーゼフの出生をめぐる激情から犯行に及び、その後シュリッテンバウアーらに発見されて口封じに殺された、という極端な仮説まで唱えられました。
1955年「閉鎖」、1986年最後の尋問

ヒンターカイフェック事件は、ヴァイマル共和国期からナチス・ドイツの台頭、第二次世界大戦、戦後のドイツ分断という激動の時代を経ても、バイエルンの警察によって、細々と捜査が続けられました。けれども、決定的な手がかりは出てきませんでした。
1955年、捜査当局は、本件を正式に「未解決事件」として閉鎖します。事件発生から33年後のことでした。
それでも、地元の刑事たちはこの事件を忘れませんでした。1986年、コンラート・ミュラー=トゥーマン首席警部(Detective Chief Superintendent Konrad Müller-Thumann)は、退職を前に、最後の聞き取り捜査を行います。事件発生から実に64年が経っていました。けれども、新たな証拠が得られることはなく、事件の謎は再び封じられます。
2007年、警察学校の若者たちが辿り着いた答え——名は明かされぬまま

2007年、ミュンヘン近郊のフェルステンフェルトブルックにある警察学校で、15名の学生たちがヒンターカイフェック事件の再調査に取り組みました。
彼らが用いたのは、当時の捜査資料、保存されていた証拠、そして現代の犯罪捜査技法でした。
学生たちはまず、1922年当時のミュンヘン捜査チームの仕事ぶりを再評価します。「ライングルーバー警部以下のチームは、当時としてはきわめて綿密な聞き取りと証拠収集を行っていた」——これが彼らの結論でした。
その一方で、学生たちはとりわけ「指紋採取が行われていなかった」点を厳しく批判します。指紋採取は当時すでに警察の一般的な捜査手段となっていたにもかかわらず、ヒンターカイフェック事件の現場では取られていなかったのです。
そして、15名全員がそれぞれ独立に証拠と証言を分析した結果、「主要容疑者」として、揃って同じ一人の人物の名前にたどり着いたと報告書には記されています。
しかし、警察学校はその名前を公表しませんでした。すでに故人となったその人物には、現代に生きる子孫がいる——彼らへの配慮から、容疑者の実名を世に出すことはしない、というのが結論でした。
ヒンターカイフェック農場の建物は、事件の翌年に取り壊されました。今、農場のあった土地に立っているのは、コンクリート製の小さな記念碑(Hinterkaifeck Andachtsstätte)と、6本の名前が刻まれたプレートだけです。
事件から100年あまり。冬になれば、農場跡の周辺には今も雪が積もります。けれども、あの夜に森から続いていた足跡が誰のものだったのか、いまも答えは、雪の下に隠されたままなのです。
参考文献
- 英語版Wikipedia「Hinterkaifeck murders」(https://en.wikipedia.org/wiki/Hinterkaifeck_murders)
- The True Crime Database「Hinterkaifeck Murders」
- Compact Histories / Christian Hardinghaus 等の事件総括資料
※ 本記事は上記の記録を一次情報として参照し、断定できない伝聞・諸説については「とされる」「と伝えられる」等の表現で区別しています。容疑者として名前の挙がった人物については、2007年警察学校再調査で「子孫への配慮から非公表」とされた方針を尊重し、特定者を犯人と断定する記述は避けています。