三星堆遺跡——文字を残さず消えた古蜀文明と、2020年以降の新発見6坑

最終更新日 59分 ago by OKAYAMA

中国・四川省、成都の北東約38キロメートル。広漢市の郊外、鴨子河(ヤズ川)の南岸に、「三星堆」と呼ばれる場所があります。

ここは、紀元前1700年頃から紀元前1150年頃まで栄えたとされる、ある古代王国の都の跡です。中原で殷(商)王朝が壮大な青銅器文明を築き上げていたのとほぼ同じ時代、四川盆地の奥地で、まったく別の様式の青銅文明が独自に発展していたことが、20世紀の発掘によって少しずつ明らかになってきました。

身長260センチを超える等身大青銅大立人像、瞳孔が16センチも飛び出した青銅縦目仮面、高さ4メートル近い青銅神樹、純度84パーセントの黄金仮面——。出土品はどれも、同時代の中原文化には類例を見ない異形のものばかりです。

そして2020年以降、新たに6基の祭祀坑が次々と発掘され、1万5000点を超える遺物が地中から姿を現しました。

解読可能な文字記録を一切残さずに地上から消えた、この古蜀の文明とはいったい何だったのでしょうか。

朝霧の中の四川盆地の古代遺跡発掘現場、土塁と発掘グリッド(三星堆遺跡のイメージ)
朝霧の四川盆地と古代遺跡発掘現場(イメージ画像。実際の三星堆遺跡の写真ではありません)

三星堆遺跡の所在と時代——古蜀文化の中心地

中国・四川盆地の田園風景、河川と緑の田畑、遠景の山並み(鴨子河流域のイメージ)
四川盆地と河川の田園風景(イメージ画像)

三星堆遺跡は、四川省徳陽市広漢市の郊外、鴨子河の南岸に広がる古代都市跡です。成都市の北東約38キロメートル、徳陽市の南約26キロメートルの位置にあります。

遺跡の中心となるのは、馬牧河と呼ばれる支流を内側に取り込んだ城壁都市で、その築造は紀元前1600年頃にさかのぼると考えられています。文化全体としては、紀元前1700年頃から紀元前1150年頃まで約500年以上にわたって続いたとされ、いわゆる「古蜀文化」の代表的遺跡として位置付けられています。

ここを特徴付けているのは、城内の特定エリアに集中して掘られた「祭祀坑」と呼ばれる穴の数々です。坑の中には、青銅器・玉器・金器・象牙・絹布などが、しばしば層をなして整然と埋められていました。意図的な祭祀行為の結果と推定されており、戦乱で慌てて隠したような乱雑さは見られないと、現地の発掘責任者によって報告されています。

殷王朝とほぼ同時代に位置付けられていますが、三星堆の青銅器は中原(黄河流域)のものとはまったく異なる作風を持っています。大きく見開かれた目を持つ人面、枝分かれする神樹、等身大の立人像——どれも、同時代の中原青銅器には見られない造形です。

1920年代末の偶然——畑から現れた一束の玉器

1920年代の中国農村で水路を掘る農民、土の中から現れた玉器(三星堆発見のイメージ)
1920年代末、灌漑水路で玉器を発見した場面(イメージ画像)

三星堆が世界に知られるきっかけは、ごく偶然の出来事でした。

1920年代末、四川省広漢市の郊外で、地元の農民が灌漑用の水路を掘っていたところ、土の中から多数の玉器が現れました。日本語版Wikipediaは1929年春、英語版は1927年と記しており、年については資料によってずれがありますが、農民の発見が出発点になったという点は一致しています。

その後、四川にいた英国国教会の宣教師ヴィヴィアン・ドニソーン(Vyvyan Henry Donnithorne)が、1931年、発掘品の重要性を認識します。そして1934年、当時の華西協合大学(West China Union University)博物館長であったデイヴィッド・クロケット・グレアム(David Crockett Graham)が、最初の本格的な発掘調査を組織しました。

その後、戦争と内戦の混乱を挟んで、本格的な調査が再開されるまでには長い時間がかかります。1980年代に入ると、現地のレンガ工場で働く作業員たちが再び大量の遺物を掘り当て、1985年10月には東西の城壁の遺構が確認されました。

そしてついに1986年、考古学史に残る発見が訪れます。

1986年・二つの祭祀坑——青銅大立人像と縦目仮面の世界

三星堆出土の青銅製の仮面(中国国家博物館所蔵)
三星堆出土の青銅製の仮面(中国国家博物館所蔵)/Photo by Windmemories, Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0

1986年、三星堆の城内で作業中の地元の作業員が、金器・青銅器・玉器・陶器などからなる大量の遺物を偶然掘り当てます。考古学者が駆け付けて整備された発掘が行われ、まず1号祭祀坑、続いて同年8月14日、そこから20〜30メートルしか離れていない場所で2号祭祀坑が発見されました。2号坑からは約800点の遺物が出土したとされています。

このとき地中から現れた遺物は、世界の中国考古学者を驚かせました。

最も象徴的なのは、青銅大立人像です。台座を含めた全高は260〜261センチメートル、像そのものの高さは172センチメートル、重量はおよそ180キログラム。中国古代青銅器のなかでも、特に大型の人物像として位置付けられています。

そして、いわゆる「縦目仮面」。横幅138センチメートル、高さ64.5センチメートル、瞳孔の部分が長さ16.5センチメートル・直径9センチメートルにわたって筒状に前へ突き出した、巨大な青銅の仮面です。両側の耳は大きく外側へ広がる形に造形されており、同種の青銅頭像と並んで三星堆を象徴する遺物の一つに数えられています。

さらに、青銅神樹。1号神樹と呼ばれるものは全高396センチメートル、樹高(像の高さ)384センチメートルで、枝の上には9羽の鳥がとまっています。中国神話に登場する太陽神話の神木「扶桑」を表したものではないか、という解釈もありますが、確定的な結論には至っていません。

このほか、長さ54センチメートルの玉璋、無数の青銅頭像、金箔を貼った頭像、象牙、貝など、多種多様な祭祀用品が祭祀坑から出土しました。一部の遺物には記号状の図像が見られるものの、現在まで「文字」として体系的に解読されたものは確認されていません。三星堆文化は、解読可能な文書記録を一切残していないのです。

2020年からの新発見6坑——15,000点超の遺物が語るもの

三星堆遺跡の発掘現場で防護服を着た考古学者が祭祀坑内の遺物を慎重に作業する様子(2022年)
三星堆遺跡の発掘現場(2022年)/Photo by 中国新聞網 (China News Network), Wikimedia Commons, CC BY 3.0

1986年の大発見からおよそ30年、三星堆は再び世界の注目を集める舞台となります。

2019年、研究者たちは1号・2号坑の周辺で探査を行い、新たに6基の祭祀坑(3号〜8号坑)の存在を確認しました。2020年3月、四川省文物考古研究院が中心となり、複数の大学・研究機関と共同で発掘を再開します。

発掘の結果は驚くべきものでした。2022年9月時点で、6坑からの出土品は計1万5109点に達し、うち、原型をほぼ留めているものだけでも4060点に上ったと、AFP通信が伝えています。

主な発見をいくつか挙げてみます。

3号坑では、横幅131センチメートル・高さ71センチメートルの青銅大仮面が出土しました。三星堆遺跡で発見された青銅仮面としては最大級のものです。製作年代は紀元前1300〜1100年頃と推定されています。

5号坑からは小型の金製品と象牙が、6号坑からは朱色の顔料(辰砂)で塗られた木製の「箱」状の遺物が見つかっています。8号坑では、高さ98センチメートルの神獣像が出土し、研究者たちが「もっとも奇妙な発見の一つ」と表現するほどの異形の造形を見せています。

なかでも象徴的だったのは、2022年6月に報告された接合の成功です。8号坑で新たに見つかった「頂尊蛇身銅人像」と、1986年に2号坑から出土していた「青銅鳥脚人像」が組み合わさることが確認され、約3000年ぶりに合体した、と現地メディアが伝えています。離れた坑から出土したパーツが組み合わさるという事実は、それぞれの祭祀坑が互いに無関係なものではなく、関連した祭祀行為の中で複数の坑へ分散して埋められた可能性を示すものと考えられています。

放射性炭素年代測定も進みました。北京大学の呉小紅(Wu Xiaohong)教授チームによる4号坑のサンプル分析では、紀元前1199〜1017年という値が得られています。これは中原における殷王朝末期に対応する時代です。

三星堆は誰の文明だったのか——古蜀王国と「蚕叢」の伝説

三星堆出土の青銅人頭像(中国国家博物館所蔵)
三星堆出土の青銅人頭像(中国国家博物館所蔵)/Photo by Windmemories, Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0

三星堆を築いた人々が、どの言語を話し、どんな名前を自らに与えていたのか。確かなことは、ほとんど何もわかっていません。文字資料が一切残されていないからです。

考古学者の多くは、三星堆文化を「古蜀王国」と呼ばれる、四川盆地に存在したとされる王国と結び付けて理解しています。古蜀については、後世の中国の正史にもわずかな伝承が残されており、その初代王として「蚕叢(さんそう)」という半ば伝説的な人物の名が伝えられています。

伝承によれば、蚕叢は「目が突出していた」と記されています。三星堆の青銅頭像の多くが、ふつうの人間離れした目の造形——とくに有名な縦目仮面の極端に飛び出した瞳孔——を共有していることから、これらの像は蚕叢的な王の姿、あるいは蚕叢に連なる神格を表したものではないかという説が、英語版Wikipediaにも紹介されています。

ただし、これはあくまで「とされる」レベルの仮説です。発掘された頭像が具体的に誰を象ったのか、像の主が王なのか神なのか、何度も繰り返された祭祀のなかでそれぞれの像にどんな役割が割り当てられていたのか——確定的に語る材料は、今のところ存在しません。

時代の流れの中で見れば、三星堆文化は、より古い宝墩文化を引き継ぎ、その後はさらに南寄りの金沙遺跡(現・成都市内)へ文化的な重心を移し、最終的に巴・蜀という春秋戦国期の地方政権へとつながっていく、と整理されています。

中原の殷王朝と同時代に並走しながら、文字記録を残さず、独自の青銅様式を持ち、最終的に静かに次の文化へバトンを渡した文明——それが三星堆だったということになります。

なぜ突如として失われたのか——洪水・地震・侵略、そして謎

三星堆出土の黄金仮面(香港故宮文化博物館での展示)
三星堆出土の黄金仮面(香港故宮文化博物館での展示)/Photo by Thoslee, Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0

三星堆文化は、紀元前1150年頃を境に表舞台から姿を消していきます。

放棄の理由について、英語版Wikipediaは「自然災害——大規模な洪水や地震の痕跡が確認されている——あるいは他文化からの侵略の結果ではないか」という諸説を紹介していますが、いずれかに学術的なコンセンサスがあるわけではありません。

考古学者を悩ませているのは、祭祀坑に埋められた遺物の状況です。多くの遺物が層をなして整然と並べられた状態で埋められており、その埋蔵の様子は、戦乱で慌てて隠したような乱雑なものではなかったと、現地の発掘責任者は説明しています。計画された祭祀の最後に「役割を終えた神器」として処分されたのではないか——そう解釈する研究者もいます。

もし本当に祭祀の終焉だったのだとすれば、三星堆の人々は、自らの神々を地中に送り返したうえで、別の地(後の金沙)へ静かに移動した、ということになります。けれども、これも仮説の域を出ません。

文字記録を残さなかった文明は、私たちに具体的な「物語」を伝えてくれません。残されているのは、青銅と玉と象牙の塊だけです。それでも、2020年以降の新発見6坑からは、未解読の図像や、これまでに見たことのない造形の遺物が続々と出土し、研究者たちは現在も整理と分析を続けています。

三星堆博物館は1997年に現地に開館し、2021年12月には「文物保護修復館」が併設されました。2023年7月には新館がオープンし、新発見6坑からの出土品約600点が初めて一般公開されています。総展示数は1500点以上に上ります。

中原の青銅器とは作風を異にし、独自の青銅様式を持って発展した古蜀の文明。その全貌が見えてくるのは、まだ何十年も先のことになるかもしれません。


参考・出典

  • Wikipedia (English) — Sanxingdui
  • Wikipedia (日本語) — 三星堆遺跡
  • Wikipedia (English) — Sanxingdui Museum
  • Zhao W. (2021) “New archeological marvels of ancient Shu civilization”, *National Science Review* 8(7) — Oxford Academic
  • AFPBB News「三星堆遺跡で新発見 祭祀坑は商王朝末期のもの」 — AFPBB
  • AFPBB News「新発見の祭祀坑6カ所から、ほぼ完全な4000点が出土 中国・三星堆」 — AFPBB
  • 人民網日本語版「三星堆遺跡で発見された『インパクトが強すぎる文化財』」(2022-06-15) — 人民網