ヒンドゥー教と仏教が絶妙に混じった壮大な遺跡、それがカンボジアのアンコールワットです。
およそ800年から1432年まで続いたアンコール朝の一部、寺院遺跡群をアンコールワットと呼びこれ単体で存在しているわけではないんですね。
歴史上プノンペンに王都が遷移した後は放棄されていたようですが、再度1550年代に一部の工事が着工されたり、其の後完全に仏教寺院へと改修されたりして今の形になりました。
昔は噂だけは世界中に知れ渡っていたようで、1586年にポルトガル人のアントニオ・ダ・マダレーナと言う人が公式に参拝した初めての西洋人として名を残しています。
また、結構有名な話ですが、日本人の森本右近太夫一房が1632年に参拝した記録が残っています。
この森本右近太夫一房が詳細に記録を残してくれていたり、当時の柱に記念に落書きを残しているのが今でも見て取る事が出来ます。
遺跡に落書きなんて今の時代だったら炎上してしまいますけどねwww
この事からも当時の世界情勢の中でも大型の仏教寺院と言う意味合いでは有名だったようですね。
アンコールワットを広く世に知らしめ、なじみ深い物にしたのは1860年にアンリ・ムーオと言う名のフランス人がここを訪れ先ずは西洋社会に紹介したことから更に有名になりました。
なんでも、カンボジアの密林深く眠る一度放棄されたこの寺院を発見したとされているのもアンリオですが、栄華を誇った大型の仏教遺跡でも政権の移り変わりや当時の情勢によっては忘れ去られてしまうと言う一つの教訓がそこには介在しているような気もしますね。
その高度な建築技術は謎
アンコールワット自体に目を向けてみますと、広さは東西南北訳1400メートルにも及ぶ広大な敷地に規則正しく配置された塔や装飾物、そして本堂には仏像が4体安置されています。
この本堂には元々ヒンドゥー今日の三人の主神の内、「維持」を司るヴィシュヌと言う神様の像が安置されていました。
当時のヒンドゥー教の勢いを物語るうえでも一つの背景になると思いますが、1546年から訳20年かけた北側の改修の際に全体的に仏教寺院へと変更したようです。
アンコールワットの素晴らしさはその表現した世界観と、建築技術のバランスが秀でてることですね。
この敷地内の様相から、様々な宗教観を盛り込んで各セクションを配置して居る事が研究で明らかになっています。
先ず中央の祠堂はヒンドゥー今日で言うところのメール山(仏教で言うところの須弥山にあたる)。
メール山と言うのは非常に重要な役割を持っていて、世界の中心の聖なる山と言う信仰がありました。
その周りに配された回廊は三重に施され、これは世界の周りを意味しています。
よく三界と言う言葉も仏教では耳にしたりしますが、この三と関係があるのでしょうか。
そして敷地内の約200メートルもの幅がある環濠は海洋を表しています。
他にも不思議な側面は沢山有り、タプロームと言う場所にある門からは恐竜をかたどったレリーフが発見されています。
第二次大戦でカンボジア方面に従軍した日本兵が、老後に開催された恐竜展でステゴサウルスを見て「戦時中現地の森でこれにそっくりな生き物を見た」と言った記録が残っていたり、世界中で恐竜と人間が一時共存していたのでは?と思わせる遺物は沢山出土しています。
この事からも実は恐竜は当初の研究よりもはるか後年まで生存してたのではないかと言う説もあります。
話をアンコールワットに戻しますが、そもそも昔はこの地は星座の龍座をモチーフに作られていた事は分かっているようで、
アンコールワットも全ての配置が龍座に即して配置されています。
しかもこの配置は紀元前10500年位の春分の日の天体図にはぴったり合うらしく、ひょっとしたら建立された年代も分かっているよりもっと大昔なのかもと思ってしまいますね。
個人的には最初からアンコールワットが作られたというよりは、昔に超古代文明のなんらかの建築物があって、それの跡地に同じようにちょっとずつ作られた物なのではと思っています。
星に配置を合わせて作られた超古代文明は他にもエジプトのギザのピラミッドが有名ですが、こちらは三基のピラミッドがオリオン座のベルトに対応しています。
古代の人々は今のようにネットも無ければテレビも無い、書籍も沢山出回っていない毎日の中で皆に共通で普遍な物として天体を崇めていた事がこの事からも読み取れます。
ただ、それを正確に建築物として表現する技術は今の世からしてもすごいの一言ですね。
アンコールワットが超古代の文明の名残と言われる所以はここにありですね。
そもそもアンコールワットを建立したのは?
ウィキには「12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって建立された」とありますが、今なお多くの謎を含んでいます。
現在のカンボジア人のルーツはクメール人とされていますが、そもそもこの民族がどこから来たのか分からない。
まるで忽然と歴史に姿を現しているのです。
アンコール朝自体に記録を書物で残すという文化が無かったため、はっきりとした記録が残っていないのが大きな要因です。
カンボジアの逸話や神話を集めた書物「カンボジア年代記」によると、現在のヒマラヤ付近に定住していた民族が移って来たとの伝承もあるようですが、同じ時代のヒマラヤ付近の民族を記録した物には出てこない。
この時の王朝の名前はアーリアデッカと言う名前だった事は分かっているが、一切他の記録に出てこないとはこれいかに。
実はアンコール朝の創始者、ジャヤーバルマン2世と言う人の出自も良く分かってないんです。
極端に言ったら何の実績も記録に残っていない王様がある日突然現れて王になっている。
その足でアンコールワットを含む巨大な建造物を建築しているというのは、又大いなるロマンを感じてしまいますね。
自分としてはこの規模の建築物を作ったと言うだけで十分超古代文明の叡智を感じてしまうんですが、調べれば調べるほど謎が深まるアンコールワットでした。