世界遺産にも登録されている中国の万里の長城は、そのスケールの大きさから唯一宇宙空間からでも確認できる地球上の建造物と言われています。
最初に着工されたのが紀元前770年~453年ぐらいとの事ですから、現在の中国がいかに昔から秀でた建築技術を持っていたかが伺えます。
当時の王朝でもあった魏や楚が、北方の遊牧民族匈奴の侵攻を抑えるために建てられました。
意外と知られていない事でもありますが、万里の長城は特定の王朝や国家が一代で築いた物ではないと言う事ですね。
実際紀元前221年に、初めて中国全土を統一した秦の始皇帝は各地に散らばって建てられていた各長城を繋げて整備し、長城としたわけです。
その後も中国の長い歴史の中で様々な国が興り衰退していきますが、その過程で長城も建造物してだけでなく時代に合わせて国土の外壁と、国家の象徴として顕在していくわけです。
超古代文明にふさわしい総延長の数字
上記の説明でも書いた通り、万里の長城はこうして修復と建造を繰り返し大きくなっていったのです。
過去沢山の学者の研究対象になった万里の長城ですが、何回かその総延長の長さを測る試みがありました。
そして面白いのが発表されるたびにその総延長が伸びていくと言う事象が起きています。
一例としては1980年代付近では総延長6352キロ、2009年には8852キロとなっており、この時点でその長さは目を見張るものがありますが、最終的に2012年の中国国家文物局が発表した総延長は2万1196キロとなっています。
2万キロとは又途方もない長さですが、現在ではこの数字が科学的根拠のある正確な数字として認知されています。
では何でこの様に数字が伸びて行くのかと言うと、何も特別な力が働いている訳ではありません。
実は万里の長城の殆どの部分は明代に作られた物で、それ以外の時代に建造された部分を含めるか否かが一つのポイントだったわけです。
つまり後世になるにつれて総延長が伸びていくと言う事象は、現在の万里の長城のどこの部分までを含めたかによって数値が変わると言う背景があったんですね。
一番古い時代に作られた部分と言うのはもう殆ど風化している所もあったりして一見万里の長城の一部とは一目で分からないほどですが、あくまで北方からの外敵の脅威に備えて作ったと言う分母は一緒ですね。
一説にはくぼみや塹壕等の跡も総延長に含まれているようですので怪しい部分もあるとは思いますが、これで一応の決着となっております。
時代と部分で建造方法が変わる万里の長城
このように少々複雑な背景を持った超古代文明の遺産万里の長城ですが、やはり複数の王朝が時代を超えて着手した事が大きく、部分部分で建造方法や材料までも違っている特徴があります。
一番古いとされている部分はやはり原始的で、丸太を向かい合わせた道を先ず作ります。
そしてそのなかに大量の黄土を流して行って固めた土塀の様なもので外壁を作りました。
時には黄土の中に藁等の特定の植物を入れる事によって外壁自体の強度を保っていた事も分かっています。
時代が変わると建造方法はどんどん進化していきます。
万里の長城の大部分がレンガ造りになった16世紀には、黄土を固めた物を焼いて堅くし物が登場します。
そしてそれを外壁に埋め込んで堅牢な長城を建造して行く手法が撮られましたが、ここまで来ると現在の建築方法と大差はないのではとも思い驚きますね。
世界遺産にも登録され、現在の新・世界7不思議の一つにも数えられる万里の長城が皆さんの知る今の形になったのはそのすぐ後の時代の17世紀ですから、16世紀から17世紀にかけての約100年で技術も固まったと言う所でしょうか。
そして万里の長城が国の外壁と言う大きな役割を終える時代が来ます。
それは1636年、元々北方の満州族の興した国、清がなると今までの外敵から守るための意味はなくなります。
その後もレンガが盗掘にあったり、自然に壊れたりもしましたが、現在では中国の重要な歴史保護対象物として中国に管理されています。
超古代文明の冠が付く建造物でここまで時代ごとに詳細が分かっている物も珍しいのですが、その壮大なるスケールと外観はやっぱり驚愕の一言ですね。
中国のイメージとしてこれを挙げる人もいるぐらい有名な万里の長城ですが、歴史だけでなく様々な作品のモチーフに使われたりするなど広くしられています。