日本最強の怨霊「平将門の呪い」と山手線が関係していた!?

みなさんは日本三大怨霊というのをご存じですか?

日本に古くから伝わる恐ろしい怨霊で、平安時代に非業の死を遂げた菅原道真・平将門・崇徳天皇の三人のことを指します。

この三人の中でも特に強力な怨念を持っているのが平将門で、今もなお日本各地でその怨霊は恐れられているのです。

そしてこの平将門の怨霊はあの首都圏を走る山手線に関係があるといわれています。

怨霊と電車に何の関係が?と思ってしまいますが、実はとても深い関わりがありました。

今回はそんな平将門と山手線の関係についてご紹介したいと思います。

なぜ平将門は怨霊となった?

そもそもなぜ平将門は怨霊となってしまったのでしょうか?

平将門は平安時代中期の豪族で、京で藤原氏に仕える桓武天皇の子孫の平一族の武士の一人でした。

将門の父である平良将が亡くなったのをきっかけにして関東へと戻り、親族間で領地争いが始まります。

その争いで将門は見事に勝利をおさめ、その強さは関東中へと伝わり多くの武将が将門のもとへと集まりました。

次第に強大な力をつけていった将門は自分のことを新皇と名乗るようになり、新国家樹立を宣言したのです。

このことで当然将門は当時の朝廷を敵に回してしまいます。

平将門の乱と呼ばれ朝廷は将門のもとへと討伐軍を送り、ついには将門は志し半ばで討たれてしまいました。

無念の死を遂げた将門の思いは死んでもなお消えることはなく、将門は朝廷への怨みをもった怨霊になったといわれています。

徳川家康作!将門の怨霊を封じる結界

先ほどご紹介したように将門は無念の死を遂げ恐ろしい怨霊へと変化してしまいました。

しかもその将門の怨霊の呪いはとても危険で、将門の首塚を作った地域で疫病が蔓延するなど、多くの人に危険を及ぼしてしまいます。

そこで将門の怨霊を封じるべくあの有名な徳川家康がある策を取りました。

それは将門を祀っている7つの神社を北斗七星の形になるように配置したのです。

将門の首が落ちた首塚や将門の兜が埋めてある兜神社、将門の鎧を埋めた鎧神社などの7つの神社の場所をわざわざ移して北斗七星の形になるようにしました。

なぜ北斗七星かというと、将門が信仰していた妙見菩薩と北斗七星は強い関係があるからです。

将門の怨霊を封じ、強大な霊力を味方につけた家康はその後長い期間にわたって徳川の時代を築きました。

しかし、明治維新によって徳川の時代も終わってしまいます。

それに伴って明治政府は家康が作った北斗七星の結界をさらなる方法で封印しました。

その方法とは、谷中霊園・築地本願寺・青山霊園・雑司ケ谷霊園で四角形を作り北斗七星の上に新たな結界を張りました。

この四角形を作ることによって兜神社と鎧神社が寸断される形となり、将門の頭と胴体がつながらないようにしたのです。

そしてこの四角形の真ん中に靖国神社を置いて将門の怨霊の力が弱まるようにしました。

山手線も実は結界だった!

先ほどの四角形の結界を作ったあと、将門の怨霊わ恐れていた明治政府は完全に怨霊を封じ込められるように対策を取りました。

それは明治18年3月1日に開業した山手線です。

兜神社と鎧神社を完全に寸断できるように線路を敷くことによって、怨霊を遮断させる効果があるという鉄の結界を張りました。

しかし、この山手線による結界が完成間近の大正12年9月1日に関東大震災が発生、これにより四角形の結界の一つである築地本願寺が倒壊してしまいます。

まるで結界が張られるのを将門の怨霊が阻止しようとしているかのようなタイミングで震災が発生しました。

そして昭和に入ると東京はアメリカ軍によって大空襲を受け、大きな被害を受けたのです。

実はこの時空襲を行ったアメリカ軍のB29は倒壊した築地本願寺の方角から攻めてきたといわれています。

その後築地本願寺は建て直されて結界は復活したといわれているのです。

まとめ

いかがでしたか、私自身あまり怨霊や呪いを信じるほうではないのですが、この平将門の怨霊は信じてしまいました。

当時の政府までも恐れた将門の怨霊、今もなお当時のまま結界は張られていますが、もし何らかの原因で結界が破られたとき、現代の日本にいったいどんな災いがもたらされるのでしょうか?

 

 

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