西暦939年…遡ること約1000年前の平安時代初期、京の朝廷に抗い関東の独立を企てた男がいます。それが今回取り上げる平将門その人です。
自らを新皇と称した彼は、第61代朱雀天皇の朝敵となり東国の独立を宣言します。しかし志虚しく即位後わずか2ヶ月で呆気なく討伐されました。
道半ばでの非業の死・そして悔恨の想いは、21世紀になった現在でも数々の呪い・祟り、そして心霊現象を引き起こしています。今回はそんな将門が祀られている『平将門の首塚』にまつわる、心霊現象を深掘りしていきましょう。
平将門の乱・概要
歴史に詳しい方はご存知でしょうが、実は平将門は第50代天皇『桓武天皇』の血を引く直系の子孫です。
正確には桓武天皇の玄孫である平高望の三男ですから、直系天皇としての血筋はさほど濃くありません。ですが源平合戦で覇権を争った源氏・平氏との関係性はなく、便宜的に『桓武平氏』と呼ばれていたようです。
この天皇の血脈が後の「将門の祟り」に繋がるという説もあります。
将門の父「平良将」は将門が物心つく前には、当時の「下総・常陸国」現在の千葉県・茨城県一帯を完全に手中に収めていました。権力も充分で、将門自身15歳になると父のつてで京に武家奉公に出されたほどです。
ここまでの力を持ち「東国の覇者」の地位を継いだ桓武平家の嫡男・将門が、新たな権力を求めるのも自明の理だったのでしょう。加えて当時、最も勢力を持つ藤原氏が他の豪族、特に地方豪族を見下していたのも一因です。
将門自身も激しく侮辱され、朝廷への再三の要求をことごとく無碍にされ続けていました。
こうして起こるべくして起こった『平将門の乱』ですが、僅か2年という短期間で決着がつき、将門は打首…更に武家にとって最も屈辱的な「さらし首」という結末に至ります。
しかしながら因縁…そして怨念の始まりは既にこの時点で始まりを告げていたのです。
将門の恨み・伝承の始まり
将門の首は平安京の七条ヶ原に運ばれ、長期間晒されるという…死後最大級の辱めを受けました。文献により解釈が異なりますが、どうやら最低でも数ヶ月もの長期間に渡り晒され続けたようです。
将門の評価は「地方豪族」「朝廷」の目線から真っ向に別れます。地方豪族から見れば自分らの意見を代弁した英雄、朝廷から見れば天皇に弓引いた大罪人と言う訳です。
将門に関する呪い話を紐解いて行くと、どの文献や信頼に足るソースでも伝承の始まりはこの『七条ヶ原』に必ずと言っていいほど行き着きます。
一つ小話を付け加えます。将門は生前「検非違使」という役職を強く朝廷に要請していました。現在で言う「軍事警察」です。将門が上京し京に滞在した期間は約12年とされています。この時点では彼なりに朝廷に恩を抱いていたのでしょう。しかし先にお話ししたように卑賎の地方豪族に、朝廷はさらさら国事中核の任務を託す道理はありません。
この時始めて将門は朝廷に対する恨みを抱いたとされています。
加えて将門の乱後、彼の一族郎党は皆殺しにされたという史実があります。その死後なお、祟りや呪いの象徴として平将門の名が挙がるのも、彼が受けた仕打ちを考えれば当然のことではないでしょうか。
将門のさらし首
非業の死を遂げた将門。更にその死後も屈辱的な扱いを受けたその首は、いつしか京にその怨念を振り撒きます。
将門の首は数ヶ月を経ても怨みの形相で人相が固まり続け、その目カッと見開いたまま、生前と変わらない鋭い眼光で当時の天皇「朱雀天皇」の玉座を見据えていたそうです。
将門が受けた「さらし首」は正確には『獄門』という死刑に分類されています。斬首ののち、その身体は無惨にも刀剣の試し切りに使われ、刎ねられた首は三日三晩晒され続ける屈辱的な刑です。三日三晩どころか数か月もの間さらし者になった将門のケースが、いかに例外的かが如実に分かりますよね。
そしてこの『将門の獄門刑』が日本史上記録に残る最も古い事例となります。
将門の首は夜な夜な自らの身体を探し求めました。「私の胴体はどこにあるのか!首を繋ぎもう一戦交えようぞ!」と夜な夜な咆哮し、京の街に恐怖を撒き続けました。
そしていつしか人々は非業の死を遂げた将門を、同じく無念のうちに散った「崇徳天皇」「菅原道真」と並び合わせ『日本三代怨霊』と呼ぶようになったのです。
平将門の首塚
平将門の首塚は現在、東京都千代田区大手町のビル街にひっそりと佇んでいます。正式名称は『将門塚』と言いますが、不思議なことに「誰が?いつ?」建立したのかが非常に不明瞭です。
とある本には「700年ほど前に建立されたのち、関東大震災で倒壊。その後、旧大蔵省(現財務省)が跡地に仮庁舎を建てたが、職員・工事関係者・大臣が次々と不審死を遂げ、ついには仮庁舎を撤去した」と書かれていました。1923年の出来事です。その後首塚は再建立し、将門の霊を慰問し続けています。
何ともショッキングな心霊現象ですが、個人的には少し疑問符が尽きます。この連続不審死について入念なリサーチを行いましたが、その真相の裏取りを取ることができなかったからです。
ただ一概に否定はできません。それは本来この首塚が建てられた土地が「古墳」であったことです。将門の首が突如として七条が原から舞い上がり、落ちた地がここ大手町でした。偶然とはいえ大昔の権力者の墓「古墳」が選ばれたのは、何かしらの意思があったのでは?という考察は考えすぎでしょうか?
将門の首塚で実際にあった心霊現象
前置きが長くなりましたが、当時の七条が原を彷彿とさせる心霊現象が、この首塚には長きに渡り報告されています。
大手町再開発事業が2010年代後半に発足し、将門塚も2020年11月22日に改修工事が着工されました。すると驚くことに3日後の25日、将門の所領であった茨城県でM4.3の地震が起こったのです。茨城県は将門の所領であり、彼にまつわる数々の神社・仏閣があり「将門公の祟りでは?」とまことしやかに語られました。
時代は遡り敗戦直後、連合国軍GHQが将門の首塚の完全撤去を目論見ます。過去の不審死をよもやま話と軽く見たGHQは、忠告をことごとく退けます。すると撤去に臨んだ重機が不自然な横転をし、運転手が死亡するという不可解な事故が起こったのです。
先にお話しした官公社建築による連続不審死が1923年の出来事です。1927年には異例の公費で『将門公鎮魂碑』が建てられたほどです。この鎮魂碑は当時センセーショナルな話題となりました。それは朝日新聞が一面で取り上げたからです。ネット上の“朝日デジタルオンライン”で現在も視聴できるので、興味を持った読者は是非ご覧になってみて下さい。
そして940年に没した将門の節目に当たる1000年目に、またも偶然とは呼び難い、不思議な現象が記録されていました。1940年に突如として落雷が起き、大手町周辺は大規模火災に見舞われます。再建した旧大蔵省庁舎は完全焼失し、建物は全焼21棟、人的被害は死亡者2人・重軽傷者107人に達する大惨事となります。
旧大蔵省が平将門の首塚に手を付けてから13年後の出来事になりますが、都民の間では「将門の祟り・呪いは未だ続いている」と噂が流れ、今まで以上に畏怖すべき存在として恐れられるようになったそうです。
有名人の体験談
ここまでのお話は実際にあったこととはいえ、被害者や心霊現象に遭遇するのは一般人に過ぎませんでした。この類の話に否定的な読者から見れば、偶然に偶然が重なりこのような逸話が流布された…と言われてもなかなか返す言葉がありません。
それでは世間に名の知れた著名人や芸能人の体験談ならいかがでしょう。
有名人ならばわざわざオカルト的な要素を話し、自身の株を下げることも少ないとは思いませんか。もちろんその手の話を生業にしたり、承認欲求を満たす人物も確かにメディアには存在します。
しかし本項で取り上げる数々の有名人は活動分野やそのジャンルもバラバラで、全く共通項が見出せません。それゆえ信憑性が増すばかりです。
それでは様々な分野をまたぐ方々の実際の証言を集めてみましたので、個々人でご紹介していきます。
稲垣吾郎(芸能人)
元SMAPの稲垣吾郎さんはバラエティ番組のロケで、平将門の首塚を訪れています。その際、実際に心霊現象に遭遇したと語っています。
番組の中で、稲垣吾郎さんは首塚周辺で写真を撮ろうとしました。ところがカメラが突然故障したそうです。また、稲垣吾郎さんは首塚の周辺で正体不明のうめき声を耳にしたとも語っています。
当時国民的アイドルグループSMAPのメンバー、稲垣吾郎さんの心霊体験談は、平将門の首塚の怪異性を裏付ける証拠として多くの注目を集めました。
泉鏡花(小説家)
明治から昭和初期にかけ活躍した小説家であり、かの「尾崎紅葉」に師事した人物です。問題となるのは彼が1895年(明治28年)に発表した著書『外科室』内のとあるストーリーになります。
そもそもこの『外科室』自体が観念小説の先駆けとなった大傑作ですが、オカルトマニアには別の側面で密かに有名な作品なんです。
泉鏡花は『外科医』の中で、平将門の首塚を訪れた際に体験した怪異を、主人公に投影し描いています。主人公の外科医師は、首塚の近くで「奇妙な光」そして「光線音」を目撃した描写があり、その後悪夢に悩まされ精神的に追い詰められていきます。
そう、この描写こそ泉鏡花そのものの心霊現象体験談でした。
岡島秀樹(元プロ野球選手)
読売巨人軍のストッパーでMLBでも見事な活躍を収めた岡島投手。そんな一線級のアスリートも、この首塚で奇妙な体験をしたと告白しています。
岡島さんは某テレビ番組の収録で首塚を訪れた際に、突然金縛りにあい首塚から必死に逃げ出したと語っています。また、首塚の近くで写真を撮ろうとすると、カメラが故障したという体験もしています。
金縛りや電子機器の故障は首塚では有名な霊障とされ、他にも多くの著名人が同様の心霊体験を経験しています。ただし、この岡島さんに限っては反骨心溢れるプロ野球選手らしく、逆に首塚に興味を惹かれ将門伝承の虜になりました。
宇多田ヒカル(歌手)
今もなお一世を風靡し続ける歌姫こと『宇多田ヒカル』彼女も過去、首塚を訪れた際に原因不明の体調不良に突如襲われたと、自身のブログに綴っています。
首塚を訪れた直後、宇多田さんは突然の高熱に襲われ数日間寝込む羽目に陥りました。ブログでは彼女自身の見解として「将門の怨霊の影響を受けたのではないか?」と考察しています。
関根勤(タレント)
関根勤さんもまたTV番組で首塚を訪れた著名人の中の一人です。
関根さんがクランクインしたのは真夜中だったそうで、大手町といえど人通りも少なく静寂に包まれるさまに、得体のしれない恐怖を感じていました。いざ撮影に入ると不自然なピントズレやノイズが撮影カメラに写り込みます。
TVクルーも諦めて帰宅の途につく決断をしますが、その時関根さんは背後から「こっちに来い…」という不気味な声を耳にします。慌てて振り返るとその場には誰一人いませんでしたが「確かにあの時確実に声を聞いた」と語り続けています。関根さんは恐怖に震えながら、その場を後にしたそうです。
乙一(作家)
作家・小説家・映画監督とマルチな活躍を見せ、オカルト分野の造詣も深い『乙一』さんは著書「怪談実話」内にて、将門塚で遭遇した自身の心霊体験を赤裸々に語っています。
とある日、友人と共に首塚を訪れた乙一さんは突如激しい頭痛に襲われます。頭痛は止むどころか次第にひどくなり、ついには意識さえ失ってしまいます。
意識が回復した時、乙一さんは何故か?首塚から数十メートルも離れた場所にいたそうです。
頻繁に起こる心霊現象
大手町はご存じ有名企業のビル群がこぞって集まる企業街です。当然サラリーマンやタクシー運転手など様々な職種の一般人がここで働いており、眠らない街としても有名です。
実は将門の首塚の心霊体験は一般人ほど遭遇しやすく、今までにゾッとするような多くの話が寄せられています。この心霊体験はかなり共通項が多く…
- 正体不明の声:人の声ではない奇妙な声が聞こえる
- 影:首塚周辺で突然黒い影が通り過ぎる
- 冷気:周囲よりも明らかに冷え込んでいる
- 金縛り:首塚を訪れた際に金縛りにあう
- 体調不良:首塚を訪れた後に体調不良を訴える
以上5つの心霊現象に絞られています。
まとめ・考察
ここまで読まれた方は既にお気づきでしょうが『平将門』の首塚伝承は、いくつもの言い伝えが複雑すぎるほど不自然に絡まりあっています。
現代と異なり記録媒体が不十分な時代において、この手の伝承は口伝により伝えられるケースが大半です。しかも1000年という余りにも長い年月が拍車をかけた結果でしょう。
ですが史実であろうと伝承であろうと、この首塚にまつわる心霊現象が起こっていることだけは確かです。著名人の体験談を例に出したのは、あまりに活躍分野に統合性がなく、到底“やらせ”の範疇では起こりえない証拠を皆様に提示するためでした。
心霊現象という形而上的な事柄を信じるか?信じないかは人それぞれです。本記事をお読みになり少しでも興味を持って下さった方は、ぜひ『平将門の首塚』を訪れてみてはいかがですか…